1 エルミート行列の定義
1.1 共役転置とエルミート条件
1.1.1 共役転置(随伴)としての表現
複素数体上の正方行列 \(A\) に対し、共役転置 \(A^\*\)(転置したうえで各成分を複素共役にする行列)を考える。行列がエルミート行列であるとは、随伴が一致して \(A=A^\*\) が成り立つことをいう。これは内積空間における「自己随伴性」に対応する概念であり、線形作用がある種の対称性をもつことを意味する。
1.1.2 成分表示による条件
行列成分 \(a_{ij}\) を用いると、条件 \(A=A^\*\) は \[ a_{ij}=\overline{a_{ji}} \] と同値である。対角成分では \(a_{ii}=\overline{a_{ii}}\) となるため、各対角成分は実数に制限される。非対角成分は、互いに位置を入れ替えた成分が複素共役の関係にある。
1.2 実数係数の場合との関係
1.2.1 実対称行列との同一視
複素エルミート行列の成分がすべて実数である場合、共役は不要になり条件は \(a_{ij}=a_{ji}\) となる。したがってエルミート条件は実対称性へ退化し、実対称行列と同一の分類を与える。結果として、実対称行列に成り立つスペクトル理論の大部分はエルミート行列にそのまま受け継がれる。
1.2.2 複素エルミート行列の新しい特徴
複素領域では、非対角成分が一般に複素数になり得る。そのため、対角化は「実対称と同様に直交行列」でなく、「ユニタリ行列」によって行われるのが本質となる。また、固有空間の直交性は標準内積に関するユニタリ性として現れ、単なる成分対称性以上の情報を含む。
2 基本的性質
2.1 固有値の実性
2.1.1 有限次元での証明の考え方
\(A\) がエルミートであるとし、固有ベクトル \(v\neq 0\) に対応する固有値 \(\lambda\) が \(Av=\lambda v\) を満たすとする。標準内積(複素内積)を用いると \[ \langle Av,v\rangle=\langle \lambda v,v\rangle=\lambda \langle v,v\rangle \] 一方で、エルミート性により \(\langle Av,v\rangle=\langle v,Av\rangle\) が成り立つので \[ \langle v,Av\rangle=\langle v,\lambda v\rangle=\overline{\lambda}\langle v,v\rangle. \] \(\langle v,v\rangle>0\) より \(\lambda=\overline{\lambda}\)、すなわち固有値は実数となる。
2.1.2 固有値の多重度と幾何学的意味
固有値の多重度(代数的多重度)は、固有空間の次元(幾何学的多重度)と一致する。エルミート性のもとでは行列が対角化可能で、しかも固有値ごとに対応する部分空間が相互に直交するため、固有値分解は幾何学的に「直交な方向の寄せ集め」として理解できる。多重な固有値はその固有空間の中で任意の基底選択が可能であることを反映する。
2.2 固有ベクトルと直交性
2.2.1 異なる固有値に対応する固有ベクトルの直交性
\(Av=\lambda v\)、\(Aw=\mu w\) に対し \(\lambda\neq \mu\) とする。エルミート性から \[ \langle Av,w\rangle=\langle v,Aw\rangle \] が成り立つため、左辺は \(\lambda \langle v,w\rangle\)、右辺は \(\mu \langle v,w\rangle\) となり、\((\lambda-\mu)\langle v,w\rangle=0\)。よって \(\langle v,w\rangle=0\)、すなわち異なる固有値に属する固有ベクトルは直交する。
2.2.2 ユニタリ行列による対角化
固有空間を全固有値にわたって直交に選ぶことで、基底をユニタリに整えることができる。その結果、ユニタリ行列 \(U\) によって \[ U^\*AU=\operatorname{diag}(\lambda_1,\dots,\lambda_n) \] のように対角化が可能になる。対角成分は固有値であり、列ベクトルはそれぞれ対応する固有ベクトルになる。
2.3 行列演算に対する閉性
2.3.1 和・スカラー倍・積(可換条件)の扱い
エルミート行列は加法と実数スカラー倍に関して閉じている。すなわち \(A,B\) がエルミートなら \(A+B\) もエルミート、さらに実数 \(\alpha\) に対して \(\alpha A\) もエルミートである。複素スカラー倍では一般に成分の共役が効くため、\(\alpha\) が実数であることが必要になる。積については、一般にはエルミート性が保たれないが、可換 \(AB=BA\) かつ両者がエルミートのときには \((AB)^\*=B^\*A^\*=BA=AB\) よりエルミートになる。
2.3.2 随伴操作と不変性
エルミート性は随伴に対して不変である。つまり \(A=A^\*\) であるから、随伴を取っても同じ行列が得られる。さらに、ユニタリ変換 \(U^\*AU\) も同様にエルミート性を保つ。これは内積構造のもとでの「座標変換」に対応し、スペクトル(固有値集合)が変わらないこととも整合する。
3 スペクトル分解と対角化
3.1 合同(ユニタリ同値)としての見方
3.1.1 ユニタリ対角化定理
エルミート行列は、ユニタリ合同(ユニタリ同値)によって対角行列へ写される。具体的には、固有値 \(\lambda_i\) とそれに対応する直交固有ベクトルからユニタリ行列 \(U\) を作り、\(U^\*AU\) を対角化する。これにより解析的性質(極限挙動、連続変形)を研究する際に、基底依存を排して議論できる。
3.1.2 射影の構成
対角化の背後には、固有値ごとの直交射影がある。固有値 \(\lambda\) に対応する固有空間への射影を \(P_\lambda\) とすると、これらは直交して \(\sum_\lambda P_\lambda=I\) を満たす。すると \[ A=\sum_\lambda \lambda P_\lambda \] の形でスペクトル分解が表される。ここで射影は冪等性 \(P_\lambda^2=P_\lambda\) と自己随伴性 \(P_\lambda^\*=P_\lambda\) をもつ。
3.2 関数 calculus(多項式・連続関数の作用)
3.2.1 多項式による関数適用
固有分解があると、行列の多項式 \(p(A)\) は固有値に対する多項式 \(p(\lambda_i)\) で決まる。対角化により \(A\) を対角成分に置き換えられるため、 \[ p(A)=U\,\operatorname{diag}(p(\lambda_1),\dots,p(\lambda_n))\,U^\* \] となる。これはスペクトルに基づく計算の基礎であり、フィルタや安定化などの手続きにも自然に対応する。
3.2.2 連続関数への拡張の直観
多項式での定義を出発点として、固有値が実数であることと連続性を利用すると、連続関数 \(f\) について \(f(A)\) を定義する考え方が得られる。対角成分に \(f(\lambda_i)\) を割り当てるのが基本像で、近似(多項式近似)を通して一般化する。結果として、エルミート性のもとでは \(f(A)\) の性質が \(f\) の性質(実値性、単調性など)に強く追随する。
3.3 典型例の整理
3.3.1 2次元の具体例
例として \[ A=\begin{pmatrix} a & z\\ \overline{z} & b\end{pmatrix} \]
| はエルミート行列になる(\(a,b\in\mathbb{R}\)、\(z\in\mathbb{C}\))。固有値は実数として得られ、特に \(\operatorname{tr}A=a+b\) と \(\det A=ab- | z | ^2\) により二次方程式を解く形で求まる。これにより、複素成分の位相は主に \( | z | \) を通じてスペクトルへ影響し、直交化の具体形は固有ベクトルに反映される。 |
|---|
3.3.2 ブロック対角形との関係
エルミート行列は、固有値の重なりに応じてブロック対角化できる。固有空間の直交分解を反映し、同一固有値に属する部分は一つのブロックになり、異なる固有値間は独立に扱える。結果として、計算上は問題を低次の部分へ分解しやすい。
4 正値性と応用に向けた拡張
4.1 半正定値・正定値の判定基準
4.1.1 二次形式としての定義
エルミート行列 \(A\) に対し、二次形式 \(x^\*Ax\) を考える。半正定値とはすべてのベクトル \(x\) で \(x^\*Ax\ge 0\) が成り立つことを指す。正定値はさらに \(x\neq 0\) のとき常に \(x^\*Ax>0\) を満たす場合である。エルミート性によりこの値は実数になり、大小比較が意味をもつ。
4.1.2 チェビシェフ型の指標(主小行列に基づく見方)
正定値性は主小行列の性質で判定できる場合がある。特に(順序を固定した)上から左上の \(k\times k\) 主小行列の行列式が連続的に正になると、正定値であることが保証される。この種の判定規準は、行列のデータが少ない状況で有用になる。
4.2 行列の不等式
4.2.1 レイリー商と最小最大原理(概観)
固有値評価の中心となるのがレイリー商 \[ R(x)=\frac{x^\*Ax}{x^\*x} \] である。エルミート性により \(R(x)\) は実数で、固有値の範囲に収まる。最小最大原理は、部分空間への制限のもとで最大・最小を取り、その結果がそれぞれ特定の固有値に一致することを述べる。これにより、数値計算での近似や変分法の根拠が与えられる。
4.2.2 ノルムや分解能との関係
正値性やスペクトルの位置関係は、作用素ノルムや分解能(どれだけ細かい成分が識別できるか)と関連する。たとえば最上位・最下位の固有値は、二次形式の増幅率や制約付き最適化の限界を規定する。結果として、推定誤差の評価、安定性解析の指標として扱われることが多い。
4.3 極分解・随伴とスペクトルの結びつき
4.3.1 エルミート部とスキューエルミート部
任意の複素正方行列 \(T\) は、エルミート部 \((T+T^\*)/2\) とスキューエルミート部 \((T-T^\*)/2\) に分けられる(後者は \(\* \) を取ると符号が反転する成分)。この分解により、振幅(実部に相当)と位相(虚部に相当)を別々の観点で扱える。特に \(T\) が正規(\(TT^\*=T^\*T\))でない場合でも、エルミート部は二次形式を通してエネルギー的な情報を与える。
4.3.2 退化した場合(固有値の重なり)の挙動
固有値が重なりを持つと、対応する固有空間の基底は一意に定まらない。そのため、射影 \(P_\lambda\) は変わらないが、個々の固有ベクトルの選び方は自由度をもつ。対角化の表示は基底選択で見え方が変わるが、スペクトル分解としての意味(固有値ごとの部分空間への投影)は保持される。
5 数学解析的観点(有限次元からの橋渡し)
5.1 内積空間とスペクトル理論の対応
5.1.1 二次形式の解析学的解釈
有限次元では \(x^\*Ax\) が単なる数値計算に見えるが、解析ではそれがエネルギー汎関数や評価写像として現れる。つまり、どの方向にどれだけの増幅が起こるかを測る量として二次形式が用いられる。固有ベクトルは、その量が極値を取る方向を与えるため、変分原理と自然につながる。
5.1.2 最小最大原理との接続
最小最大原理は、部分空間上の制約付き最適化を通して固有値を取り出す仕組みを提供する。有限次元では厳密な離散的対象として振る舞うが、この構造は無限次元へ移す際にも、レイリー商や変分量の評価として再利用される。したがって、エルミート行列での理解は後続のスペクトル解析の直感形成に役立つ。
5.2 無限次元への準備(概念のみ)
5.2.1 有限次元での性質が拡張される条件
無限次元では「行列」ではなく作用素が対象になる。有限次元での対角化可能性は一般に失われるため、代わりに自己随伴性、閉性、稠密性といった構造条件が重要になる。エルミートと呼ぶべき対象は自己随伴作用素であり、そのときレイリー商やスペクトル評価の枠組みが再構成される。
5.2.2 自己随伴作用素への導入(概要)
自己随伴作用素は、内積空間上で \(\langle Tx,y\rangle=\langle x,Ty\rangle\)(適切な定義域で)を満たす概念であり、有限次元のエルミート性に対応する。スペクトルは実数に属し、関数 calculus はスペクトル射影に基づく形へ拡張される。これにより、微分作用素などの解析的対象が「エルミート行列と同類の枠組み」で理解できる。
5.3 関連する概念の比較
5.3.1 正規行列との位置づけ
正規行列は \(TT^\*=T^\*T\) を満たす行列で、一般にはユニタリ対角化が可能である。エルミート行列はその特殊例として含まれ、固有値が必ず実数になる点でより強い性質を持つ。したがって、正規性は対角化可能性を与え、エルミート性は固有値の実性と射影分解の自然さを保証する、と整理できる。
5.3.2 対称・エルミート・ユニタリの違いと対応
- 対称:実数体上で \(A^T=A\) のように転置で一致する性質。
- エルミート:複素体上で \(A^\*=A\) のように共役転置で一致する性質。
- ユニタリ:\(U^\*U=I\) のように内積を保つ性質で、回転や基底変換の役割を担う。
対称とエルミートはいずれも「自己随伴性」を表し、固有値の実性や直交分解に関わる。ユニタリはその分解を実現する変換群であり、エルミート行列のユニタリ対角化を可能にする背景に位置づけられる。