1 定義
内積は、二つのベクトルから一つの実数または複素数を与える演算である。長さ、角度、直交性を数式で扱うための基盤となり、ユークリッド幾何の考え方を線形代数へ拡張したものとみなせる。有限次元のベクトル空間だけでなく、関数の集まりにも同様の構造を入れることで、解析学や物理学の多くの問題を統一的に記述できる。
1.1 ユークリッド空間における内積
ユークリッド空間では、二つのベクトル a, b に対して、成分ごとの積を足し合わせた量が標準的な内積として定義される。2次元では a=(a1,a2), b=(b1,b2) に対し a·b=a1b1+a2b2、n次元でも同様に各成分の積の総和で表される。これは幾何学的には、ベクトルの長さとそれらのなす角を結びつける役割を持つ。
1.2 一般の内積空間の定義
一般の内積空間では、ベクトル空間上の写像 ⟨·,·⟩ が一定の公理を満たすとき、それを内積という。実ベクトル空間と複素ベクトル空間とでは条件の表し方に違いがあり、後者では共役が関わる。こうした抽象化により、座標表示に依存しない性質を扱える。
1.2.1 線形性
内積は各変数について加法とスカラー倍に関して整合的である。実数の場合、片側の変数に関して線形性を持つことが典型で、和の内積は各項の和に分配される。これにより、複雑なベクトルを部分和に分けて計算することが容易になる。
1.2.2 対称性
実数値の内積では、⟨x,y⟩=⟨y,x⟩が成り立つ。つまり、どちらのベクトルを先に置いても値は変わらない。複素数値の場合は単純な対称性ではなく、共役対称性が用いられる。
1.2.3 正値性
内積は、同じベクトル同士でとると非負となり、ゼロになるのは零ベクトルのときに限られる。これは長さの概念を導くための重要な条件である。正値性があることで、内積から距離やノルムを定義できる。
1.3 複素内積
複素ベクトル空間では、内積は複素数値をとり、片方の変数について線形、他方について共役線形となる。さらに、⟨x,y⟩の値は⟨y,x⟩の複素共役に一致する。量子力学やフーリエ解析では、この複素内積が自然に現れる。
2 基本性質
内積が与えられると、ベクトルの長さ、直交、角度などの概念が同時に定まる。これらは互いに密接に結びついており、内積空間の幾何を形作っている。
2.1 線形性から導かれる性質
線形性により、内積は分配法則を満たし、スカラー倍を外へ出せる。これにより、ベクトルの和に対する展開計算が行いやすくなる。たとえば、(x+y)とzの内積は、xとz、yとzの内積の和に分けられる。
2.2 直交性
内積がゼロであることは、二つのベクトルが互いに直交していることを表す。これは長さだけでなく方向の関係を示す指標であり、幾何学的には直角に対応する。
2.2.1 直交ベクトル
非零ベクトル x, y が ⟨x,y⟩=0 を満たすとき、両者は直交する。互いに独立な成分を持つと理解されることが多く、座標系の構成や分解計算で重要になる。
2.2.2 直交部分空間
部分空間 W に対し、W のすべてのベクトルと直交するベクトル全体を直交部分空間という。これにより、空間を互いに干渉しない成分へ分ける考え方が可能になる。直交分解や最小化問題でも中核的な役割を果たす。
2.3 ノルムとの関係
内積からは、ベクトルの大きさを表すノルムが自然に定義される。ノルムは長さの抽象化であり、内積空間の距離構造を与える。
2.3.1 長さの定義
| ベクトル x の長さは、通常、 | x | =√⟨x,x⟩で定められる。これは実ベクトルでも複素ベクトルでも同様に用いられる。ゼロベクトルの長さは0となり、それ以外は正の値をもつ。 |
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2.3.2 三角不等式
| ノルムは三角不等式 | x+y | ≤ | x | + | y | を満たす。これは「二辺の和は第三辺以上」という幾何学的直観を一般化した性質である。内積に基づくノルムでは、この不等式が空間の距離構造を支える。 |
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2.4 角度との関係
| 実内積空間では、二つのベクトルの内積と長さから角度を定められる。一般に、cos θ = ⟨x,y⟩/( | x | · | y | ) により θ を計算する。内積が正なら鋭角、負なら鈍角、ゼロなら直角に対応する。 |
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3 幾何学的解釈
内積は、抽象的な代数演算であると同時に、図形の性質を読み取る道具でもある。射影、距離、角度の表現を通じて、空間内の位置関係を具体的に記述できる。
3.1 射影
あるベクトルを別のベクトルの方向へ写す操作を射影という。これは成分の取り出しや近似の考え方に直結している。
3.1.1 ベクトルの射影
ベクトル x を非零ベクトル y の方向へ射影した成分は、⟨x,y⟩/⟨y,y⟩ に基づいて表される。これにより、x が y の方向にどれだけ含まれるかを数値化できる。物理では力の成分分解、解析では近似誤差の評価に使われる。
3.1.2 成分分解
任意のベクトルは、ある部分空間に沿う成分と、その直交補空間に属する成分に分けられる。こうした分解は、最適近似や最小二乗法の理論的基礎である。直交成分があると、計算が簡潔になり誤差の意味も明確になる。
3.2 距離の表現
| 内積から定まるノルムを使うと、二点 x, y の距離は | x−y | で表される。これはユークリッド距離の一般化であり、関数空間でも同様の形をとる。距離の定義により、収束や連続性を論じやすくなる。 |
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3.3 角度の計算
内積は角度を具体的に求める手段を与える。二ベクトルの向きの関係を数値で把握できるため、図形の判定や物理的な方向解析に役立つ。特に正規直交基底を用いると、角度の扱いが単純化する。
4 代表的な内積空間
内積はベクトル空間のさまざまな例に導入できる。対象が数列、行列、関数、多項式へ変わっても、共通する構造として働く。
4.1 ユークリッド空間
最も基本的な例は実数の n 次元空間 R^n である。標準内積は成分の積の和で表され、幾何学との対応が明瞭である。多くの理論はこの空間を出発点として展開される。
4.2 行列空間
行列全体の空間にも内積を入れられる。たとえば、対応する成分の積をすべて足し合わせる方法がある。これにより、行列の比較や近似、最適化の議論が扱いやすくなる。
4.3 関数空間
関数同士にも内積を定められる。区間上での積分を用いて、二つの関数の類似性や直交性を測ることができる。フーリエ解析や偏微分方程式の理論で中心的な役割を持つ。
4.3.1 ルベーグ積分を用いる例
可積分関数 f, g に対し、⟨f,g⟩=∫ f(x)\overline{g(x)} dx の形で内積を定義する例がある。積分区間や測度の選び方によって、さまざまな関数空間が得られる。これは現代解析学で標準的な構成である。
4.3.2 直交関数系
関数空間では、異なる関数が内積ゼロとなるとき、それらを直交関数と呼ぶ。三角関数系や多項式系などは、適切な内積のもとで直交系をなすことがある。こうした系は展開や近似の基礎になる。
4.4 多項式空間
多項式の集合にも内積を導入できる。係数に基づく方法のほか、区間上の積分による定義もある。直交多項式は数値計算や近似理論で広く利用される。
5 計算と応用
内積は理論的概念にとどまらず、具体的な計算技法としても重要である。基底の選択、固有値問題、近似法、物理法則の記述など、多方面に応用される。
5.1 基底を用いた計算
適切な基底を用いると、内積の計算は簡潔になる。特に直交性があると、成分どうしの干渉が少なくなり、式の見通しがよくなる。
5.1.1 正規直交基底
各基底ベクトルの長さが1で、互いに直交する基底を正規直交基底という。これを使うと、任意のベクトルの成分は内積によって容易に求められる。線形代数では最も扱いやすい基底の一つである。
5.1.2 グラム・シュミットの直交化法
与えられた一次独立なベクトル列から、正規直交基底を構成する手続きである。順に射影成分を差し引きながら直交化し、その後正規化する。理論と計算の両面で有用である。
5.2 固有値問題への応用
対称行列や自己共役作用素では、内積が固有値問題の構造を明らかにする。固有ベクトルの直交性や、エネルギー最小化との関係がしばしば現れる。数値線形代数でも基本的な道具となる。
5.3 最小二乗法
観測データに最もよく合う近似を求める際、誤差の長さを最小にする考え方が使われる。これは内積による直交射影と深く関係している。回帰分析や数値計算で広く応用される。
5.4 物理学への応用
物理学では、内積は力、速度、場、波動などの記述に現れる。ベクトル量の成分を取り出し、相互作用の強さを表す手段として機能する。
5.4.1 仕事とエネルギー
力と移動の方向が与えられると、仕事はその内積によって表される。方向が一致すると大きく、直角なら寄与はゼロになる。これは力学の基本式の一つである。
5.4.2 波動と振動
波や振動の解析では、関数どうしの内積が相関やエネルギーの評価に使われる。異なる振動モードが直交すると、分離して考えやすくなる。フーリエ解析はこの性質を活用している。
6 重要な定理
内積空間の理論は、いくつかの基本不等式と存在定理によって支えられている。これらは計算の正当化だけでなく、空間全体の構造理解にもつながる。
6.1 コーシー・シュワルツの不等式
| 任意の二ベクトル x, y について、 | ⟨x,y⟩ | ≤ | x | · | y | が成り立つ。内積の大きさは、各ベクトルの長さの積を超えない。この不等式は、角度の定義や多くの評価式の基礎となる。 |
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6.2 ミンコフスキーの不等式
ノルムをもつ空間では、和の長さが個々の長さの和以下に抑えられる。内積から導かれるノルムでもこの性質は成立する。距離空間としての整合性を支える重要な結果である。
6.3 パーセヴァルの等式
正規直交基底に関する展開係数の二乗和が、元のベクトルの長さの二乗に一致する関係をいう。これはエネルギー保存のような形で現れ、フーリエ級数の解析で特に重要である。成分表示と幾何が一致することを示す代表例である。
6.4 正規直交基底の存在
有限次元内積空間では、任意の基底から正規直交基底を構成できる。グラム・シュミット法がその具体的手段となる。これにより、空間を最も扱いやすい形に整えることができる。
7 関連概念
内積は単独で使われるだけでなく、他の基本概念と組み合わさって理論を形成する。ノルム、距離、直交補空間、ヒルベルト空間はいずれも密接に結びついている。
7.1 ノルム
ノルムはベクトルの大きさを表す関数であり、内積から自然に導かれる。逆に、すべてのノルムが内積から生じるわけではないため、両者は区別される。内積ノルムは特に幾何学的解釈が豊かである。
7.2 距離
距離は二つの点やベクトルの隔たりを数値化する。内積空間では、ノルムを通じて距離が定義されるため、空間の近さや収束を定量的に扱える。解析学の基本的な道具である。
7.3 直交補空間
ある部分空間に直交する全ベクトルの集合を直交補空間という。これは射影や成分分解の理論を支える重要な対象である。線形方程式や近似問題でも頻出する。
7.4 ヒルベルト空間
内積と完備性を備えた空間をヒルベルト空間という。無限次元の内積空間の理論を整える中心的な枠組みで、量子力学、関数解析、信号処理などに広く用いられる。内積の一般理論が最も豊かに展開される舞台である。