1 基本概念
1.1 行列の定義
行列は、数や記号を縦と横に規則的に並べた長方形の配列である。要素をまとめて扱えるため、計算や理論の記述を簡潔にできる。代数学では、連立方程式や線形写像を表す基本形式として扱われる。
1.2 成分と次数
行列を構成する個々の値を成分と呼ぶ。縦の並びを行、横の並びを列といい、行数と列数を組にしたものを次数またはサイズという。一般に、m行n列の行列は m×n 行列と表記される。
1.3 特殊な行列
特定の構造をもつ行列は、計算上も理論上も重要である。標準的な例として、単位行列、零行列、対角行列、三角行列がある。これらは、演算の基準や簡約化の手段として頻繁に現れる。
1.3.1 単位行列
単位行列は、主対角成分がすべて1で、それ以外が0の正方行列である。積における1の役割を果たし、他の行列との積で元の行列を変えない。
1.3.2 零行列
零行列は、すべての成分が0の行列である。加法における0に相当し、どの行列に足しても元の行列を変化させない。
1.3.3 対角行列
対角行列は、主対角線上以外の成分がすべて0の正方行列である。構造が単純なため、逆行列や固有値の議論で扱いやすい。
1.3.4 上三角行列と下三角行列
上三角行列は、主対角線より下側がすべて0の行列である。下三角行列はその反対に、主対角線より上側がすべて0である。これらは連立方程式の解法や分解法で重要な役割をもつ。
1.4 行列の表記法
行列は通常、角括弧や丸括弧の中に成分を並べて書く。成分は添字で示され、一般に aᵢⱼ のように表される。こうした記法により、位置を明確に指定しながら議論できる。
2 行列の演算
2.1 加法と減法
同じ次数の行列どうしでは、対応する成分をそれぞれ加えたり引いたりできる。これにより、ベクトルの演算に似た扱いが可能になる。成分ごとの操作なので、定義も直観的である。
2.2 スカラー倍
行列の各成分に同じ数を掛ける操作をスカラー倍という。全体の大きさや符号を一括して変えられるため、線形性を考える際の基本操作となる。
2.3 行列の積
2.3.1 積の定義
行列の積は、左の行列の行と右の行列の列に対応する成分の積を足し合わせて定める。左の列数と右の行数が一致するときに積が定義される。この規則は、合成変換や連立方程式の表現と整合的である。
2.3.2 積の性質
行列の積には結合法則や分配法則が成り立つ。一方で、単位行列との積は元の行列を保ち、零行列との積は零行列になる。これらの性質は代数構造の理解に欠かせない。
2.3.3 積の非可換性
多くの場合、AB と BA は一致しない。これは行列演算の重要な特徴であり、数の掛け算との大きな違いである。順序が結果を左右するため、計算では配列の並びに注意が必要になる。
2.4 転置行列
転置行列は、行と列を入れ替えて得られる行列である。もとの行列が m×n なら、転置は n×m となる。対称性の判定や内積との関係でよく使われる。
2.5 べき乗と累乗
正方行列では、自分自身との積を繰り返してべき乗を定義できる。指数が大きい場合でも、漸化式や離散的な変化を表すのに有用である。特に、反復計算や状態遷移の記述で現れる。
3 行列の重要な性質
3.1 逆行列
3.1.1 逆行列の定義
正方行列 A に対し、積をとると単位行列になる行列 B が存在するとき、B を A の逆行列という。通常、A⁻¹ と表される。
3.1.2 逆行列の存在条件
逆行列が存在するのは、行列が特異でない場合に限られる。判定には行列式や階数が関係し、行や列が十分に独立であることが必要になる。正方行列であっても、必ず逆をもつとは限らない。
3.1.3 逆行列の求め方
逆行列は、掃き出し法や余因子展開、分解法などを用いて求められる。実際の計算では、行列のサイズや形に応じて適切な方法を選ぶことが多い。数値計算では、直接求めるより別の解法を使う方が安定なこともある。
3.2 行列式
3.2.1 行列式の定義
| 行列式は、正方行列に対応する数であり、det A や | A | と書かれる。2次や3次では具体的な公式があり、高次では展開や帰納的な定義で扱う。逆行列の可否や体積変化の尺度として重要である。 |
|---|
3.2.2 行列式の性質
行列式は、行や列の交換で符号が変わり、同じ行をもつと0になる。ある行に他の行の倍を加えても値は変わらない場合があるなど、計算を簡略化する規則が多い。積に対しては、行列式も積になる。
3.2.3 幾何学的意味
行列式の絶対値は、線形変換による面積や体積の拡大縮小率を表す。符号は向きの反転の有無を示す。これにより、代数的な量が幾何学的な変化と結びつく。
3.3 階数
3.3.1 行と列の独立性
階数は、行ベクトルまたは列ベクトルのうち一次独立な最大個数として定義できる。行と列の階数は一致し、行列がどれだけ情報を保持しているかを示す指標になる。独立性の欠如は、冗長な成分や制約の存在を意味する。
3.3.2 階数の計算法
階数は、基本変形によって簡約化し、非零行の本数を数えることで求められる。掃き出し法と組み合わせると、実用的に計算しやすい。理論面では、主小行列や分解法による評価も用いられる。
3.4 トレース
トレースは、正方行列の対角成分をすべて足し合わせた値である。転置や相似変換に対して一定の性質をもち、固有値の和とも深く関係する。簡潔ながら、行列の全体的な特徴を反映する量である。
4 行列の応用
4.1 連立一次方程式
連立一次方程式は、係数を行列にまとめることで統一的に表現できる。未知数の並びをベクトルとして扱えば、式全体を一つの方程式に整理できる。これにより、解の存在や一意性を体系的に調べられる。
4.1.1 掃き出し法
掃き出し法は、拡大係数行列に基本変形を施して解を求める方法である。未知数を順に消去し、階段形や簡約階段形へ変形する。手計算でも機械的に進めやすく、基礎的で広く使われる。
4.1.2 逆行列による解法
係数行列が可逆なら、両辺に逆行列を掛けて未知ベクトルを求められる。形式は簡潔だが、実際の計算では逆行列を明示的に作るより、他の方法を使う場合も多い。理論的には、解の構造を明快に示す。
4.2 線形変換
4.2.1 変換行列
線形変換は、ある基底を定めると行列で表せる。各列は基底ベクトルの像を並べたものとして理解できる。したがって、行列は幾何学的な操作を代数的に記述する道具となる。
4.2.2 合成変換
線形変換の合成は、対応する行列の積に一致する。先に行う変換が右側に現れるため、順序の把握が重要である。これにより、複数の操作を一つの積でまとめて扱える。
4.3 固有値と固有ベクトル
4.3.1 固有方程式
固有ベクトルは、線形変換を受けても向きが変わらず、定数倍だけされるベクトルである。その倍率を固有値という。固有方程式は、行列に λI を引いた式の行列式を0と置くことで得られる。
4.3.2 対角化
対角化は、行列を適切な基底変換によって対角行列へ変えることである。固有ベクトルが十分にそろうと実現しやすい。計算が単純になるため、べき乗や微分方程式の解析で非常に有効である。
4.3.3 ジョルダン標準形
ジョルダン標準形は、対角化できない場合を含めて行列を標準的な形に整理する方法である。固有値ごとの構造を、対角に近いブロックとして表す。理論的には、行列の本質的な性質を細かく分類する枠組みとなる。
4.4 数値計算への応用
行列は、計算機による大規模計算で中心的な役割を果たす。アルゴリズムの設計では、精度、安定性、計算量のバランスが重要になる。科学技術計算、画像処理、データ解析などで広く利用される。
5 発展的な話題
5.1 ブロック行列
ブロック行列は、行列を小さな部分行列の集まりとして捉える考え方である。構造が見通しやすくなり、大規模問題の整理に役立つ。分割して扱うことで、理論と計算の両面で柔軟性が増す。
5.2 行列分解
5.2.1 LU分解
LU分解は、行列を下三角行列と上三角行列の積に分ける方法である。連立方程式の解法や繰り返し計算の効率化に有効である。前進代入と後退代入により、実装しやすいのも利点である。
5.2.2 コレスキー分解
コレスキー分解は、正定値対称行列を、ある下三角行列とその転置の積で表す分解である。LU分解よりも簡潔な形になり、計算量の面で有利な場合がある。数値線形代数で頻繁に用いられる。
5.2.3 特異値分解
特異値分解は、任意の行列を直交行列と対角行列の組合せに分ける強力な分解である。データ圧縮、ノイズ除去、次元削減などに広く応用される。行列の近似やランクの理解にも役立つ。
5.3 直交行列とユニタリ行列
直交行列は、実数成分で転置が逆行列になる行列である。ユニタリ行列は、その複素数版に相当する。どちらも長さや内積を保つため、安定な変換として重視される。
5.4 実対称行列とエルミート行列
実対称行列は転置しても変わらず、エルミート行列は複素共役転置で不変な行列である。これらは固有値が実数になるなど、整った性質をもつ。物理学や数値計算で特に重要な分類である。