1 基本概念

逆行列は、正方行列に対して「掛けると単位行列になる」ように定義される行列である。線形代数では、数の世界における逆数に対応する概念として扱われ、可逆な変換を元へ戻す操作を表す。連立一次方程式の解法や、写像可逆性の判定に広く用いられる。

1.1 定義

行列 \(A\) に対して、\(AB=BA=I\) を満たす行列 \(B\) が存在するとき、\(B\) を \(A\) の逆行列という。ここで \(I\) は単位行列である。逆行列は通常 \(A^{-1}\) と表記される。

1.2 存在条件

逆行列は、任意の行列に対して定義できるわけではない。可逆であるためには、対象の行列が一定の条件を満たす必要がある。

1.2.1 正方行列であること

逆行列が定義されるのは、基本的に正方行列に限られる。これは、左右から掛けたときに同じ単位行列へ戻るためには、行と列の数が一致している必要があるからである。

1.2.2 行列式と可逆性

有限次元の正方行列では、行列式が零でないことが可逆性の代表的な判定条件となる。行列式が 0 のとき、その行列は特異であり、逆行列を持たない。また、階数が最大であることも同値な条件として知られる。

1.3 一意性

逆行列が存在する場合、それはただ一つに定まる。もし \(A\) に対して逆行列が複数あるなら、両者は単位行列との積条件から同一でなければならない。この一意性により、逆演算は明確に定義される。

1.4 単位行列との関係

単位行列 \(I\) は、逆行列の基準となる特別な行列である。任意の可逆行列 \(A\) について、\(A^{-1}A=I\) および \(AA^{-1}=I\) が成り立つ。したがって、逆行列は「元の行列を単位行列に戻す操作」を担う。

2 性質

逆行列には、積、転置、スカラー倍などに関する基本的な法則がある。これらの性質は、計算の簡略化や証明に頻繁に利用される。

2.1 積の逆行列

二つの可逆行列 \(A\)、\(B\) については、積 \(AB\) も可逆であり、\((AB)^{-1}=B^{-1}A^{-1}\) が成り立つ。逆順になる点が重要で、行列積の非可換性を反映している。

2.2 転置行列との関係

行列 \(A\) が可逆なら、その転置 \(A^T\) も可逆である。さらに、\((A^T)^{-1}=(A^{-1})^T\) が成立する。転置を先に行うか、逆行列を先に取るかで結果は一致する。

2.3 スカラー倍との関係

可逆行列 \(A\) に対し、0 でないスカラー \(c\) を掛けた \(cA\) も可逆である。その逆行列は \((cA)^{-1}=\frac{1}{c}A^{-1}\) となる。なお、\(c=0\) の場合は可逆性を失う。

2.4 逆行列の逆行列

行列 \(A\) が可逆なら、\(A^{-1}\) も可逆であり、その逆行列は元の行列 \(A\) である。すなわち、\((A^{-1})^{-1}=A\) となる。これは逆操作を二度行うと元に戻ることを示している。

2.5 べき乗との関係

可逆行列 \(A\) については、整数のべきに対して \(A^n\) の逆行列が \((A^{-1})^n\) で与えられる。負の整数では、\(A^{-n}=(A^{-1})^n\) と定義できる。これにより、行列の指数計算が拡張される。

3 求め方

逆行列の求め方には、手計算向きの方法と数値計算向きの方法がある。行列の規模や目的に応じて、適切な手法を選ぶことが重要である。

3.1 掃き出し法

掃き出し法では、拡大行列 \((A\,\,I)\) を基本変形し、左側を単位行列に変えることで右側に逆行列を得る。ガウス・ジョルダン法としても知られ、比較的体系的に計算できる。

3.2 余因子行列による方法

小さな行列では、余因子と随伴行列を用いて逆行列を求める方法が使える。理論的には明快だが、次数が大きくなると計算量が増えやすい。

3.2.1 余因子の定義

ある成分に対する余因子は、その成分を除いた小行列の行列式に符号を付けたものである。各成分の余因子を並べることで、余因子行列が作られる。

3.2.2 随伴行列の利用

余因子行列を転置したものを随伴行列という。可逆行列 \(A\) については、\(A^{-1}=\frac{1}{\det A}\,\mathrm{adj}(A)\) が成り立つ。行列式が 0 でないことが前提となる。

3.3 分解を用いる方法

行列分解を使うと、逆行列そのものを直接求めずに、連立方程式効率よく処理できる。大規模な計算では、こちらの方が実用的であることが多い。

3.3.1 LU分解

LU分解では、行列を下三角行列 \(L\) と上三角行列 \(U\) に分ける。これを用いると、逆行列の各列を順次求めることができ、繰り返し計算に向いている。

3.3.2 ほかの分解法

QR分解Cholesky分解なども、目的に応じて利用される。逆行列を明示的に作らず、解を直接求めるための補助手段として機能することが多い。

3.4 数値計算上の注意

数値計算では、丸め誤差や条件の悪さが結果に影響する。特に、ほぼ特異な行列では逆行列の値が不安定になりやすい。実務では、逆行列を作るより、線形方程式をそのまま解く方が望ましい場合が多い。

4 応用

逆行列は、理論的な概念にとどまらず、計算や変換の実際の場面で広く使われる。特に、方程式の解法と線形変換の解析で重要性が高い。

4.1 連立一次方程式の解法

連立一次方程式を行列表現すると、\(Ax=b\) の形になる。\(A\) が可逆なら、両辺に \(A^{-1}\) を掛けて \(x=A^{-1}b\) と表せる。これにより、解の存在と一意性を簡潔に示せる。

4.2 線形変換の逆変換

線形変換が可逆であるとき、その逆変換は逆行列によって表される。座標変換回転、伸縮などを元に戻す場面で有用であり、幾何学的な意味も明確である。

4.3 特殊な行列への適用

特定の種類の行列では、逆行列の形が簡単になる場合がある。構造を利用すると、計算を大きく省力化できる。

4.3.1 対角行列

対角成分がすべて 0 でない対角行列は可逆であり、逆行列も対角行列になる。各対角成分をそれぞれ逆数にすればよい。

4.3.2 置換行列

置換行列は、標準基底の順序を入れ替える行列である。逆行列は、対応する並べ替えを元に戻す置換行列になる。

4.3.3 直交行列

直交行列では、転置行列が逆行列に一致する。したがって、\(Q^{-1}=Q^T\) が成立する。これは、長さや角度を保つ変換であることと対応している。