1 定義

零行列は、すべての成分が 0 である行列である。行の数と列の数は任意で、2行2列、3行4列のようなさまざまなサイズで考えられる。線形代数では、行列の演算規則を定める基礎例として扱われる。

1.1 行列の成分による定義

零行列は、各成分を成分表示したときにすべてが 0 になる行列である。成分が一つでも 0 以外であれば零行列ではない。したがって、その本質は「どの位置にも非零成分を含まないこと」にある。

1.2 記号と表記

零行列は、文脈に応じて 0 や O などで表される。サイズを明示する必要がある場合には、0_{m\times n} のように書いて、m行n列の零行列であることを示す。表記は分野や教科書によって多少異なる。

1.3 サイズごとの零行列

零行列は任意のサイズで定義できるが、加法や積の計算ではサイズの整合が重要になる。同じ大きさの行列どうしであれば加算でき、積については内側の次元が一致している必要がある。サイズが異なる場合、同じ「零」であっても演算上の役割は変わる。

2 基本的な性質

零行列は、行列演算における最も基本的な振る舞いを示す対象である。加法では単位元として機能し、スカラー倍や積でも特別な簡約をもたらす。これらの性質により、一般の行列式計算や理論的な証明で頻繁に用いられる。

2.1 加法単位元としての性質

同じサイズの任意の行列 A に対して、A に零行列を足しても結果は A のままである。これは行列の加法における単位元の性質であり、数に対する 0 の働きと対応している。加法逆元の定義にも、この性質が前提として使われる。

2.2 スカラー倍との関係

任意の行列 A に対して、0 を掛けると零行列になる。また、零行列に任意のスカラーを掛けても、結果はやはり零行列である。これにより、スカラー倍の演算は零を保存することがわかる。

2.3 行列積との関係

零行列は、行列積でも消去的な役割を示す。積の結果がどのようなサイズの零行列になるかは、掛け合わせる行列の次元に依存する。線形写像合成を行列で表すときにも、この性質は自然に現れる。

2.3.1 左から掛けた場合

零行列を左側から掛けると、積の結果は零行列になる。これは、左辺の各行がすべて 0 であるため、積の各成分が 0 の和になるからである。ベクトル作用させても、出力は常に零ベクトルとなる。

2.3.2 右から掛けた場合

右側に零行列を置いて掛けても、結果は零行列になる。右辺の各列がすべて 0 であるため、内積計算で非零成分が生じない。したがって、左右どちらから積を取っても、適切な次元であれば零が保たれる。

2.4 転置共役転置

零行列の転置は、元の零行列と同じ零行列になる。複素数成分をもつ場合の共役転置でも、複素共役を取ってから転置しても 0 は 0 のままである。つまり、これらの変換に対して零行列は不変である。

3 線形代数における役割

零行列は、ベクトル空間や線形写像の理論において基準点のような位置を占める。零ベクトルとの対応を通じて、線形性の定義や方程式の構造を理解する手がかりになる。抽象的な議論でも、もっとも単純な例として重要である。

3.1 ベクトル空間の零元

ベクトル空間には、加法の単位元として零ベクトルが存在する。零行列は、行列空間におけるこれと同じ位置づけを持つ。行列全体を一つのベクトル空間とみなすと、零行列はその零元に対応する。

3.2 零変換との対応

線形写像で、すべての入力を零ベクトルに送るものを零変換という。これを行列で表現すると、対応する行列は零行列になる。したがって、零行列は「何も起こさない変換」を表す標準的な例である。

3.3 連立一次方程式との関係

連立一次方程式では、係数行列が零行列である場合に、方程式の構造が極端に単純になる。係数がすべて 0 であれば、未知数に依存する項は消え、定数項との整合だけが問題になる。これにより、一般の解法の骨格を確認しやすい。

3.3.1 同次方程式

同次方程式では右辺も 0 であるため、零行列に対応する式は常に自明な形になる。未知数がどの値でも式が成り立つわけではなく、各項が消える構造を通して解の意味を考えることになる。零行列は、この最も基本的な同次系の例を与える。

3.3.2 解空間の基礎例

零行列に関する同次方程式では、解空間は大きくなり得る。たとえば、制約がまったく加わらない場合には、すべての変数が自由になる。これは、線形方程式の解空間が係数行列の情報に強く依存することを示す初歩的な例である。

4 ほかの行列との比較

零行列は、他の代表的な行列と比べることで性質がいっそう明確になる。単位行列とは加法と乗法で対照的な役割を持ち、正則性や冪零性を考える際にも基準となる。特殊な行列クラスの中では、しばしば境界的な例として扱われる。

4.1 単位行列との違い

単位行列は行列積における単位元であるのに対し、零行列は加法の単位元である。前者は掛け算をしても相手を変えず、後者は足し算をしても相手を変えない。両者は行列代数の二つの基本構造を代表する。

4.2 正則行列との関係

零行列は正則行列ではない。正則行列は逆行列を持つが、零行列にはそのような逆は存在しない。これは、零行列が積で恒等的な振る舞いを実現できないことに由来する。

4.3 冪零行列との関係

冪零行列は、ある正の整数乗で零行列になる行列である。零行列自身は、0 乗以外の任意の正の冪で再び零行列になるため、最も単純な冪零行列の例とみなされる。したがって、冪零性の概念を理解する出発点となる。

4.4 特殊な行列クラスにおける位置づけ

対称行列直交行列、三角行列などの特殊なクラスの多くに、零行列は条件を満たす形で含まれうる。ただし、定義によっては非自明な条件を要求するため、常にその中心例とは限らない。とはいえ、境界的かつ例外の少ない標準例として広く参照される。