1 非拡大写像の定義
1.1 距離空間における基本定義
1.1.1 リプシッツ定数と非拡大性の同等性
距離空間 \((X,d_X)\) から \((Y,d_Y)\) への写像 \(f:X\to Y\) が非拡大(non-expansive)とは、任意の \(x_1,x_2\in X\) に対し \[ d_Y\bigl(f(x_1),f(x_2)\bigr)\le d_X(x_1,x_2) \] が成り立つことをいう。これは \(f\) がリプシッツ条件 \[ d_Y(f(x_1),f(x_2))\le L\,d_X(x_1,x_2) \] を満たし、最適なリプシッツ定数 \(L\) が \(1\) 以下である場合と同等である。実務上は「距離を増幅しない」という直観に即して、係数として \(1\) を上限に置くのが自然である。
1.1.2 拡大写像・収縮写像との関係
非拡大の対概念として、距離をある因子で増やす性質を持つものが拡大に相当するが、一般の定式化ではリプシッツ定数の符号や厳密度により分類が分かれる。一方、より強い概念として収縮写像があり、任意の点対に対して \[ d_Y(f(x_1),f(x_2))\le q\, d_X(x_1,x_2)\quad (0\le q<1) \] を満たす。収縮は非拡大の特殊化であり、距離が必ず減る(少なくとも比例して減る)ため反復により収束を引き起こしやすい。非拡大は「増えない」だけなので、反復しても距離が単調に縮むとは限らず、収束挙動はより繊細になる。
1.2 一般化:擬距離・半ノルムの場合
1.2.1 計量の取り替えと性質の変化
距離関数の仮定を弱めた擬距離では \(d(x,y)=0\) でも \(x=y\) が必ずしも従わない。また、半ノルムに基づく位相空間では「線形構造」と「大きさの測り方」がずれることがある。これらの場合も非拡大の定義は同様に、「測度(擬距離や半ノルム)で評価して増やさない」不等式として書ける。もっとも、擬距離では等距離類が分解できるため、非拡大性は商空間に降ろして扱うと見通しが良くなる。半ノルムでは零で測られる方向が存在しうるため、像の識別可能性が変わり、連続性や一意性に影響が出る。
1.2.2 距離0の点の扱い
非拡大性は不等式の形で定まるため、距離が零になる点対が存在しても定義自体は矛盾なく成立する。だが位相的には、零距離を持つ点を同一視しない場合、連続性の判断や収束の定義が工夫を要することがある。そこで通常は擬距離を零距離同値関係で割った商で考え、測定が縮退した情報を整理する。こうすると「非拡大」は整合的に再解釈され、反復や固定点の議論でも混乱が減る。
2 代表的な例と判定方法
2.1 実数直線・ユークリッド空間の例
2.1.1 射影・切断(クリッピング)操作
2.1.1.1 区間への再収縮としての解釈
実数の区間 \([a,b]\) への切断写像(射影)を \[ P(x)=\min\{b,\max\{a,x\}\} \]
| で定めると、ユークリッド距離 \(d(x,y)= | x-y | \) の下で \(P\) は非拡大である。理由は、\(x\) と \(y\) を区間内に押し戻す操作が、互いの差を増やし得ないことにある。直感的には「区間外の点は端点へ寄せられるが、寄せる先が異なる限りでも差は広がらない」ためであり、一般の内積空間での凸集合への直交射影が同様の性質を持つことへ連なる。 |
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2.1.2 平行移動・回転・直交変換
ユークリッド空間での平行移動 \(f(x)=x+c\)、回転や反射などの直交変換は、距離を保つ等長写像(isometry)である。非拡大性は等長性の直接の帰結として成立し、つまり \[ d(f(x_1),f(x_2))=d(x_1,x_2) \] が成り立つ。等長写像は非拡大より強いため、ここでは「増えない」のみならず「変わらない」ことが保証される。したがって、非拡大性の判定でまず等長性の形を見分けると効率が良い。
2.2 関数の微分による判定
2.2.1 勾配の大きさ(ノルム)の上界
\(\mathbb{R}^n\) 上の微分可能関数 \(f\) が実数値の場合、非拡大の判定は勾配のノルムで与えられることが多い。例えば \(f:\mathbb{R}^n\to\mathbb{R}\) が \(C^1\) で、平均値の定理を用いると \[
| f(x)-f(y) | \le \sup_{z}\|\nabla f(z)\|\,\|x-y\| |
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\]
| が得られる。よって \(\sup_z \|\nabla f(z)\|\le 1\) なら \(f\) は非拡大(正確には「距離の意味に合わせたリプシッツ型の非増大」)になる。この考え方は、微分の上界が全球的な距離非増大へ影響する典型例である。 |
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2.2.2 ヘッセ行列と局所非拡大性
写像がベクトル値 \(F:\mathbb{R}^n\to\mathbb{R}^m\) の場合、非拡大性はヤコビアン(微分作用素)の作用ノルムにより捉えるのが基本になる。局所的には、各点での微分 \(DF(x)\) が持つ作用素ノルムが \(1\) 以下なら、その近傍で距離の増幅が抑えられる。ヘッセ行列は二階の変化率を表すため、厳密な非拡大性そのものというより「どのように上界が保たれるか」「境界で破れるか」といった局所挙動の解析に役立つ。特に、微分がどこで限界値に近づき、どの方向で条件が破れ得るかを調べる際に有効である。
2.3 ノルム空間での例:線形作用素
2.3.1 有界線形作用素と作用素ノルム
線形写像 \(T:X\to Y\) がバナッハ空間上の有界線形作用素なら、作用素ノルム \[
| \|T\|=\sup_{x\ne 0}\frac{\|Tx\|_Y}{\|x\|_X} |
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\] で評価できる。非拡大性は \[
| \|Tx-Ty\|_Y=\|T(x-y)\|_Y\le \|x-y\|_X |
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\]
| と同値であり、これは \(\|T\|\le 1\) と一致する。したがって線形の場合の判定は「作用素ノルムが一以下か」という計算規則へ簡潔に落ちる。 |
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2.3.2 コンポーネントごとの非拡大性
| 直積ノルムや成分分解がある場合、非拡大性は成分の上界から組み立てられることがある。例えば \(\|(\,u,v\,)\|_p\) のようなノルムでは、各成分が非拡大であるだけでは十分でない場合があり、合成の仕方(\(p\) の取り方や相関の有無)を考慮する必要がある。一方、直交分解に基づくユークリッドノルムでは、成分ごとに距離を増やさない(あるいは適切に支配する)ことが全体の非拡大へつながりやすい。結局のところ、ノルムの定義と作用素の構造を揃えることが判定の鍵になる。 |
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3 非拡大写像の性質
3.1 合成・積・反復に関する閉性
3.1.1 非拡大性の保存:合成則
非拡大写像 \(f:X\to Y\)、\(g:Y\to Z\) を考える。任意の \(x_1,x_2\in X\) について \[ d_Z(g(f(x_1)),g(f(x_2)))\le d_Y(f(x_1),f(x_2))\le d_X(x_1,x_2) \] となり、合成 \(g\circ f\) も非拡大である。したがって距離非増大の性質は合成に対して閉じている。積(直積)として扱う場合も同様に、各成分が非拡大であれば適切な積ノルムの下で全体が非拡大になる。
3.1.2 反復写像と距離非増大
非拡大写像 \(f\) に対して反復 \(f^n\) を考えると、合成則により各 \(n\) について \(f^n\) は非拡大である。つまり \[ d(f^n(x_1),f^n(x_2))\le d(x_1,x_2) \] が保証される。これは「反復しても点どうしの距離が増えない」ことを意味し、安定性の弱い形として理解できる。ただし距離が減る保証はないため、収束に直結しない点が収縮との大きな違いである。
3.2 幾何学的・位相的性質
3.2.1 等連続性と連続性の保証
非拡大はリプシッツ条件を \(L=1\) とみなしているため、直ちに等連続である。距離空間では等連続性は連続性を含意するので、非拡大写像は連続である。さらに、収束列の性質も制御されやすく、たとえば \(x_n\to x\) なら \(f(x_n)\to f(x)\) が従う。こうした位相的安定性は、固定点の議論や極限操作の正当化で繰り返し利用される。
3.2.2 コンパクト性との相性
作用素の反復が収束へ向かうかどうかは非拡大だけでは決まらないが、対象空間のコンパクト性が加わると話が変わることがある。たとえば連続写像としての非拡大は、コンパクト空間上なら像のコンパクト性を保ち、極限点の存在や部分列の抽出が容易になる。さらに、非拡大により距離が抑制されると、極限点周りでの挙動が整理され、固定点の存在や収束経路の分類に結びつく場合がある。
3.3 境界事例:厳密な条件と反例
3.3.1 「距離を増やさない」以外に必要なこと
非拡大性は弱い制約であり、固定点や一意性の保証には一般に追加条件が要る。例えば収縮のように厳密な縮小率 \(q<1\) がないと、反復列の距離が止まったり、周期的に推移したりする余地が残る。また、空間側の性質(コンパクト性、凸性、完全性など)や写像側の性質(可測性、可微分性、凸性との整合)によって結論が左右される。したがって「非拡大だから必ず収束する」といった一般化は成立しない。
3.3.2 局所非拡大から大域非拡大へ
局所的には、微分の作用ノルムが一以下といった条件で「近傍では非拡大」が示せる場合がある。しかし、その性質が全域へ自動的に延長されるとは限らない。距離が大きい領域で微分の上界が崩れると、局所の議論は無力になる。大域化には通常、微分の上界が全域で維持される、または平均値的な評価を有効に適用できるような構造が必要である。境界での縮退や、途中での滑らかさの欠如も障害になりうる。
4 応用:固定点と収束
4.1 固定点定理との関係
4.1.1 デデキント型固定点の典型
非拡大写像は収縮とは異なるため、固定点定理の適用形も状況依存になる。コンパクトで凸な集合上の非拡大(あるいはそれに類する正則性を満たす)写像では、凸性と位相構造に基づく固定点原理が関与する。デデキント型は「極限操作と順序構造」などの考え方を背景にする固定点の典型として語られることがあり、非拡大性による距離の制御が、極限点候補の安定化に寄与することがある。
4.1.2 条件を強めたときの一意性
固定点の存在だけでなく一意性が必要な場面では、非拡大からさらに条件を強めることが多い。収縮であれば反復により距離が明確に減るため、一意性と収束の両方が得られやすい。非拡大のまま一意性を狙う場合には、固定点近傍での厳密な退化回避(例えば局所的な縮小が生じる)や、特定の幾何学的構造(凸性や正則性)を付加する必要がある。結果として、非拡大性は固定点理論の出発点に位置し、決定的な結論は追加仮定で分岐する。
4.2 反復法と収束の議論
4.2.1 収縮写像との比較
収縮写像では Banach の収縮写像定理により、反復 \(x_{n+1}=f(x_n)\) の収束と固定点の一意性が保証される。非拡大は距離の上界しか与えないため、一般には収束が従わない。より具体的には、距離が下がるメカニズムが欠けると、反復が円環状や準周期的に推移しても距離増大が起きないため、極限を持たない例が生まれ得る。したがって、非拡大の反復は「安定性(暴走しにくさ)」と「収束(最終的に一点へ寄ること)」を分けて考えるのが適切である。
4.2.2 非拡大でも起きる収束・起きない収束
非拡大であっても、固定点に対して軌道が特定の形で制限されるなら収束が起こり得る。例えば写像が対称性を持つ場合や、軌道がコンパクト集合内に収まり、距離が単調性を示す副条件があると、部分極限が固定点へ集まることがある。他方、非拡大でも縮小率が一に等しくなる領域が広いと、複数の点を行き来して距離が一定に保たれる現象が起きる。結論は、非拡大の弱さゆえに「軌道がどの部分空間に拘束されるか」へ依存する。
4.3 最適化・解析における利用
4.3.1 勾配法の安定化(非拡大写像としての見方)
勾配法は更新則を \(x_{n+1}=x_n-\alpha\nabla \phi(x_n)\) と書ける。ここで、更新写像を非拡大として見なすには、ステップ幅 \(\alpha\) や関数 \(\phi\) の滑らかさ(勾配のリプシッツ性)によりヤコビアンの大きさが制御される必要がある。適切な \(\alpha\) を選ぶと、ある領域で更新写像が距離非増大となり、反復が暴れる確率が下がる。非拡大は収束そのものの保証ではないが、数値計算での安定性解析において重要な足場になる。
4.3.2 プロジェクション法と近接性の保持
制約付き最適化では、一歩ごとに更新点を制約集合へ戻すための射影(または再収縮)が使われる。前節の切断や凸集合への射影の性質により、射影写像が非拡大である限り、「制約集合内のどの点とのズレ」も更新により増えにくい。これにより、誤差評価や近接性(ある解集合に対する距離)の推移が扱いやすくなる。とくに凸性の仮定がある設定では、射影の幾何学的性格が距離非増大の形で最適化アルゴリズムへ組み込まれる。