1 スペクトル半径の定義
1.1 固有値に基づく定義
スペクトル半径(spectral radius)は、線形な対象が持つ「成長の上限」を捉えるための代表的な量である。最も基本的には、行列 \(A\) の固有値 \(\lambda\) の集合に対して \[
| \rho(A)=\max\{ | \lambda | :\lambda\ \text{は }A\text{の固有値}\} |
|---|
\] と定義される。つまり、固有値の絶対値の最大値がスペクトル半径となる。
この量は、行列が反復的に作用されるときの支配的な振幅を反映する。たとえば、離散時間で状態を \(x_{n+1}=Ax_n\) により更新する状況では、長期的な大きさの増減を決める軸になる。
1.2 線形作用素への一般化
スペクトル半径は行列だけでなく、バナッハ空間やヒルベルト空間上の線形作用素にも拡張できる。位相ベクトル空間上の線形作用素 \(T\) について、可逆性を失う複素数の集合であるスペクトル \(\sigma(T)\) を用いて \[
| \rho(T)=\sup\{ | \lambda | :\lambda\in\sigma(T)\} |
|---|
\] と置くのが一般的である。
有限次元では、作用素のスペクトルは固有値の集合と一致するため、上の定義は行列の場合と整合する。無限次元では「固有値が存在しない」場合でもスペクトルは定義でき、スペクトル半径はその外縁(半径)として理解できる。
1.3 スペクトル(スペクトル集合)との関係
スペクトル半径はスペクトル集合の半径として表される。複素平面上でスペクトル集合 \(\sigma(A)\)(あるいは \(\sigma(T)\))を考えると、原点から最も遠い点までの距離が最大となる。その距離が \(\rho\) に等しい。
この見方は、解析的な性質(連続性、境界評価)や、作用素の挙動(冪作用の成長)を幾何学的に把握するのに有用である。さらに、スペクトルはジョルダン構造や零点の重複度に直接対応する場合があり、成長率の階層(指数成長に伴う多項式因子)を区別する議論の入口にもなる。
2 基本性質と定理
2.1 基本的な不等式
2.1.1 固有値とノルムの関係
スペクトル半径と行列ノルム(あるいは作用素ノルム)には基本的な関係がある。代表的には、任意の従属ノルムに対して \[
| \rho(A)\le \|A\| |
|---|
\] が成り立つ。理由は、固有値 \(\lambda\) が \(A\) の「近似的な固有方向」に対応し、その大きさが作用素の最大伸縮を超えないことにある。
さらに、冪ノルムを使うと上限をより鋭く捉えられる。一般に \[
| \rho(A)=\lim_{n\to\infty}\|A^n\|^{1/n} |
|---|
\] が成立する。従って、スペクトル半径は冪の大きさの指数率として特徴づけられる。数値計算ではこの式が推定の基礎になる。
2.2 連続性・不変量としての性質
| スペクトル半径は行列や作用素の変化に対して連続的に振る舞う。具体的には、有界作用素の文脈で \(\|T_k-T\|\to 0\) のとき \(\rho(T_k)\to \rho(T)\) が期待され、少なくとも有限次元では連続性が保証される。 |
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また、基底変換に対する不変性が重要である。可逆行列 \(S\) を用いた相似変換 \(A\mapsto S^{-1}AS\) に対して \[ \rho(S^{-1}AS)=\rho(A) \] が成り立つ。これは固有値が相似変換で不変であることから直ちに理解できる。従ってスペクトル半径は、表現の選び方に依存しない「内在的な成長指数」である。
無限次元では相似に対する詳細が位相やスペクトル論の枠組みに依存するが、基本的には「スペクトルを通して定義している量」であるため、適切な同値性の下で不変になる。
2.3 可換性・合成に関する性質
積や合成に関する評価も、スペクトル半径の実用性を支える。一般には \[
| \rho(AB)\le \rho(A)\,\|B\| |
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\] のような不等式が型として現れ、スペクトル半径同士が直接積に分解されるわけではない。とはいえ、条件を課すとより明確な関係が得られることがある。
例えば、可換(\(AB=BA\))な場合には、スペクトルの構造が揃いやすく、冪や多項式の評価により \(\rho\) の挙動を読みやすくなる。典型的には多項式 \(p\) に対し \[
| \rho(p(A))= \max\{ | p(\lambda) | : \lambda\in \sigma(A)\} |
|---|
\] が成立し、固有値が変換にどう写るかを通じて合成の効果を記述できる。
また、冪に関しては \[ \rho(A^k)=\rho(A)^k \] が成り立つ。これはスペクトル集合が冪写像で変換されることに起因するため、反復計算や指数型の成長評価で特に役立つ。
3 反復法・漸近挙動への応用
3.1 行列累乗と収束条件
反復や離散時間の基本形は行列累乗に還元されることが多い。たとえば反復 \(x_{n}=A^n x_0\) を考えると、スペクトル半径は長期挙動の指数率に直結する。
一般に、\(\rho(A)<1\) なら \(A^n\) はノルムの意味で指数的に減衰し、結果として \(x_n\to 0\) が起こりやすい。一方、\(\rho(A)>1\) なら少なくともある成分(スペクトル方向)が指数的に増大し、零への収束は期待できない。境界の \(\rho(A)=1\) はより繊細で、固有値の配置やジョルダン形により多項式因子を伴うことがある。
このため、収束の判定は「行列ノルムの小ささ」ではなく「スペクトル半径が1未満か」を軸に整理すると見通しがよい。
3.2 安定性(離散時間ダイナミクス)
離散時間ダイナミクス \(x_{n+1}=Ax_n\) の安定性は、線形系ではスペクトル半径で特徴づけられることが多い。定常点(零点)に対して、すべての初期値が有界に保たれるか、あるいは漸近的に零へ収束するかは \(\rho(A)\) によって分岐する。
典型的には、
- \(\rho(A)<1\):漸近安定(初期の大きさに応じて指数減衰)
- \(\rho(A)>1\):不安定(成長モードが存在)
が対応する。これにより、制御理論や数値時系列の安定設計では、離散化後の写像に対して \(\rho\) を評価する実務的な手順が取られる。
また、固有値が単位円上にある場合は、減衰がなく振動成分が残る、あるいは多項式的に増える、といった多様な挙動があり得るため、固有値の幾何学的配置(位相と重複度)に注意が必要になる。
3.3 反復解法(線形方程式など)への影響
線形方程式 \(Ax=b\) を反復で解く場合、多くの手法は固定点形式に写せる。たとえば \[ x_{k+1}=Gx_k+c \] の形では、誤差 \(e_k=x_k-x^\*\) が \[ e_{k+1}=Ge_k \] に従う。ここで支配的な収束率や収束可否は、誤差伝播行列 \(G\) のスペクトル半径で決まる。
具体的には、\(\rho(G)<1\) が反復の収束条件の中核となり、さらに \(\rho(G)\) が小さいほど誤差の指数減少が速くなる傾向がある。反復法(ヤコビ法、ガウス・ザイデル法、SOR など)は、条件数やノルムだけでなくスペクトル半径の大小を通して速度が比較できる。
数値計算の観点では、厳密な \(\rho\) を解析的に求められないことも多いため、近似的な上界やランダムベクトルを用いた経験的推定が行われることがある。いずれの場合も、収束性の判断基準として \(\rho\) が中心に置かれる。
4 計算方法と推定
4.1 固有値計算による実装
有限次元の行列では定義どおりに固有値を求めればよい。実装上は、QR 法、バランシング付きの固有値アルゴリズム、あるいは大規模疎行列向けの反復固有値法(例えば Arnoldi 法系)などが利用される。得られた固有値の絶対値の最大を取ればスペクトル半径が得られる。
ただし、行列が大規模になると全固有値を計算することはコストが高い。そこで「最大絶対値固有値」だけを狙う戦略が採用されることが多い。特に、固有値の近傍に複数のモードがある場合、どれが支配的かを識別するための工夫(初期ベクトルの選択、シフト戦略、収束判定)が重要になる。
4.2 べき乗法・パワー法系の考え方
スペクトル半径の定義にある「最大絶対値固有値」という見方に加え、冪極限の表現が計算を導く。前述の通り \[
| \rho(A)=\lim_{n\to\infty}\|A^n\|^{1/n} |
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\]
| であるため、実用では \(\|A^n\|\) を直接扱うよりも、べき乗法(power method)に代表される反復で指数率を推定する。 |
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べき乗法では、適当な初期ベクトル \(v_0\) から \(v_{n+1}=Av_n\) を計算し、比(例えばノルムの比や Rayleigh 商に類する量)を通じて成長率を追跡する。支配的な固有値が一意(絶対値が最大で、かつ位相の影響が制御される)であれば推定は安定しやすいが、複数の固有値が同程度に大きいと、推定値の揺らぎが生じることがある。
パワー法系には拡張があり、べき乗に伴うスケーリングや、シフト・インバート戦略によりターゲット固有値を引き出す手法もある。いずれも「冪で見える指数成分が、最終的にスペクトル半径を支配する」という原理に依拠する。
4.3 線形近似・上界下界による推定
| スペクトル半径を厳密計算できない場合、上界と下界を組み合わせて挟み込む推定が使われる。例えばノルムによる上界 \(\rho(A)\le \|A\|\) はその最初の例である。さらに、冪ノルムを用いた上界として |
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\[
| \rho(A)\le \|A^n\|^{1/n} |
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\] が得られるため、複数の \(n\) で計算した値の最良を採用すると精度が上がることがある。
下界側は、実際には支配的な方向に対応するベクトルを探すことで得られる。実例として、あるベクトル \(v\) に対して \(Av\) の大きさを測り、そこから推定器を構成する方法がある。こうした推定は厳密保証の取り方にバリエーションがあり、反復で得たベクトルが支配モードにどれだけ近いかが精度を左右する。
また、行列が特定の構造(対称性、正定値性、疎性、ブロック構造など)を持つ場合には、スペクトル半径に関係するより鋭い評価が導入できる。構造を活かすほど計算量を抑えつつ推定精度を高めやすい。