1 歴史
1.1 開発背景
1970年代初頭、アタリ社はアーケードゲーム『ポン』で成功を収めた後、家庭用ゲーム市場への参入を模索していた。当時、家庭用ゲーム機は専用ハードウェアで1種類のゲームのみを実行するものが主流だったが、アタリの共同創業者ノーラン・ブッシュネルは、プログラムを交換可能な汎用機の構想を抱いていた。1975年、アタリは「ステラ」というコードネームでプロジェクトを開始。設計チームはジェイ・マイナー率いるエンジニアグループで、MOS 6502をベースにした低コストCPU(MOS 6507)と、テレビ信号を生成する独自のTIA(Television Interface Adapter)チップを開発した。これにより、ROMカートリッジ方式でゲームを差し替えられるという、画期的なコンセプトが実現した。
1.2 発売と市場拡大
1977年9月、アタリは「Atari Video Computer System(VCS)」として本機を発売。希望小売価格は199ドルで、当初は『コンバット』『アウトロー』など9本のカートリッジと共に販売された。発売当初の販売は緩やかだったが、1978年末の『スペースインベーダー』のアーケード移植版が大ヒットし、家庭用ゲーム機の存在を広く知らしめた。この成功により、アタリは1980年から利益が急増。1981年には、販売台数が累計1000万台を突破した。
1.3 ブームとその後の衰退
1980年代初頭、アタリ2600は家庭用ゲーム市場を席巻し、『アタリのパックマン』『E.T.』などの大型タイトルも投入された。しかし、急成長の裏でサードパーティー市場が乱立。アクティビジョンなどの正規サードパーティーに加え、無許可他社のカートリッジも横行した。さらに、1982年末にリリースされた『E.T.』は品質面で大きな失望を招き、大量の在庫が発生。この在庫処分のために、アタリは1983年にニューメキシコ州の埋立地に数百万本のカートリッジを廃棄する事件を起こした。これが引き金となり、北米全体のゲーム市場が崩壊。1983年の大不況により、多くのゲーム会社が倒産・撤退した。
1.4 後継機と生産終了
アタリは1982年に後継機「Atari 5200」を発売したが、2600との互換性がなく、市場の混乱を拡大した。1984年、アタリ社の家庭用ゲーム部門はジャック・トラミエル率いる企業に買収され、新たに「Atari Corporation」が設立。Atari 2600の生産・販売は継続され、1986年には低価格版「Atari 2600 Jr.」も発売された。その後、1992年1月1日に正式に製造が終了されるまで、約15年にわたって販売が続けられた。総販売台数は約3000万台と推定される。
2 ハードウェア
2.1 本体構造
2.1.1 CPUとメモリ
Atari 2600の心臓部は、MOS 6502をワンチップパッケージ化したMOS 6507 CPUを採用。動作クロックは1.19 MHz。メインメモリは128バイトのRAM(機種により256バイトに拡張されたものも存在)と、4KBのROM(カートリッジのプログラム領域とは別)を持つ。これは当時の基準で極めて限られたリソースであり、プログラマーは厳しい制約の中でゲームを開発する必要があった。
2.1.2 グラフィック・オーディオ処理
グラフィックと音声を担当するTIA(Television Interface Adapter)チップは、解像度160×192ピクセル、最大128色(ただし同時表示は4色程度)の表示能力を持つ。スプライト機能として2体のプレイヤーと2体のミサイル、1つのボール、そして背景用のプレイフィールドを管理。音声は2チャンネルの矩形波とノイズを生成可能。これらの処理は走査線単位でCPUが制御する必要があり、いわゆる「レース・ザ・ビーム」技法が多用された。
2.2 コントローラー
標準コントローラーは、8方向のデジタルジョイスティックと1つのファイアボタンから成る。スティックはマイクロスイッチ式で、操作感はカチカチと明確なクリック感が特徴。コントローラーポートはDE-9コネクタ(9ピンD-sub)を採用し、ジョイスティックのほか、パドルコントローラーやトラックボール、キーボードなどの特殊な入力機器にも対応した。
2.3 周辺機器
2.3.1 プログラマー用アクセサリ
アタリは開発者向けに「Atari 2600 Programmer's Card」や「Stella Programmer's Guide」を提供した。また、カートリッジのプロトタイプを開発するためのEPROM基板や、RAMを拡張するための追加メモリカートリッジも市販された。ゲーム開発会社向けにデバッグ用の専用ハードウェアも存在した。
2.3.2 通信・改造機器
1980年代初頭、有線モデムを用いたゲーム配信サービス「GameLine」が実験的に提供された。また、サードパーティーからはジョイスティックポータブル拡張や、TIAの出力を改良するビデオ出力変換器などが発売された。改造としては、カートリッジスロットを交換可能にする「スーパーチャージャー」のような周辺機器も存在する。
3 ゲームソフト
3.1 主要タイトル
3.1.1 アタリ純正
アタリ自社開発のタイトルとしては、本体バンドル用『コンバット』、アーケード移植の『スペースインベーダー』(1980年)、『アタリのパックマン』(1982年)、『E.T. ジ・エキストラテレストリアル』(1982年)が有名。特に『アタリのパックマン』は販売本数700万本を記録したが、グラフィックの酷評によりブランドイメージを傷つけた。その他、『ヤーズ・リベンジ』『アドベンチャー』(初のアクションアドベンチャー要素を持つ)なども評価が高い。
3.1.2 サードパーティー製
サードパーティーの先駆けはアクティビジョン。『ピットフォール!』(1982年)はローリングジャングルアクションとして傑作とされ、2600のグラフィック限界を超えた表現を実現。他に、イマジックの『デモン・アタック』、コレコの『ドンキーコング』移植版、パーカー・ブラザーズの『フロッガー』など。無許可メーカーのタイトルも多数出回り、中には『カングルー』等の海賊版もあった。
3.2 カートリッジとメディア
標準カートリッジは、基板上にROMが実装されたプラスチックケース。容量は2KB、4KB、8KBが主流で、一部16KBのタイトルも存在。ソフトウェア保護は一切なく、カートリッジのリード信号を解析することで内容を容易にダンプ可能。なお、後期のカートリッジにはバンク切り替え技術を用いたものもあり、容量拡大を図った。
3.3 有名なバグや珍品
『E.T.』は開発期間がわずか6週間で、穴に落ちると抜け出せない致命的バグが多数存在。『アタリのパックマン』はフリッカー現象が顕著で、オリジナルの面構成を完全に再現できていない。『アドベンチャー』には、開発者ウォーレン・ロビネットが隠しメッセージとして残した「イースターエッグ」が初めて確認されたタイトルとして知られる。また、ごく一部のカートリッジには基板上に誤った部品が実装された珍品も存在する。
4 業界への影響
4.1 家庭用ゲームの標準化
Atari 2600は、ROMカートリッジ方式によるソフト交換モデルを確立し、後のNES(ファミコン)等の標準プラットフォームの基礎を築いた。また、ジョイスティック+ファイアボタンというコントロール方式は、その後長くゲーム機の基本インターフェースとして受け継がれた。
4.2 1983年ゲーム不況
過剰生産、品質管理の欠如、無許可ソフトの氾濫が原因となり、1983年に北米ゲーム市場は暴落。アタリ自体が大きな打撃を受け、さらにサードパーティーの多くが倒産した。この不況により、家庭用ゲーム機市場は一時停滞し、任天堂のNESが新たな秩序を打ち立てるまで数年の空白期間が生じた。
4.3 レトロゲーム文化と保存活動
1980年代後半以降、Atari 2600は「レトロゲーム」の代表的存在として、愛好家の間で収集・保存活動が活発化。ゲームデータのダンプや、TIAチップの解析によるエミュレーションの研究が進められた。また、現存するハードウェアの修理ガイドや、自作ゲームの開発コミュニティも存在する。
5 評価と遺産
5.1 受賞・記録
Atari 2600は、2007年にアメリカ国立テクノロジー賞(National Medal of Technology)を開発者らに授与されるきっかけとなった。また、ゲーム史における最も影響力のあるプラットフォームとして、多くのメディアでランキングの上位に挙げられる。販売台数は約3000万台で、1980年代前半の家庭用ゲーム機市場シェアの大半を占めた。
5.2 エミュレーションと復刻
多くのエミュレータがAtari 2600をサポートしており、StellaやZ26が有名。近年では、AtGames社から公式ライセンスを受けた復刻版「Atari Flashback」シリーズが発売され、60タイトル以上を内蔵したコンソールが販売された。また、Atari VCS(2018年発売の現代版)にも、2600のゲームをプレイ可能なモードが搭載されている。
5.3 ポップカルチャーでの言及
Atari 2600は、1980年代のサブカルチャーを象徴するアイコンとして多くの映画やテレビ番組に登場。『ストレンジャー・シングス』シリーズでは、主人公たちが2600をプレイするシーンがあり、1980年代ノスタルジーを喚起する小道具として使用された。また、『E.T.』のカートリッジ大量廃棄事件は、インターネットミームとしても知られる。