1 背景と原因

1.1 ベルサイユ体制の矛盾

第一次世界大戦後、1919年に締結されたベルサイユ条約は、ドイツに対して厳しい賠償金と領土割譲、軍備制限を課した。ドイツは全戦争責任を負わされ、1320億金マルクという巨額の賠償金を科せられた。また、アルザス=ロレーヌ地方をフランスに割譲し、ラインラントの非武装化を強いられた。これらの条件はドイツ国民の間に強い怨恨と屈辱感を生み出し、後のナチス台頭の温床となった。ベルサイユ体制は敗戦国への過酷な処遇と、新たな国際秩序の不安定性という矛盾を内包していた。

1.2 世界恐慌とファシズムの台頭

1929年に始まった世界恐慌は、各国経済に壊滅的な打撃を与えた。ドイツでは失業率が30%を超え、社会不安が急激に高まった。この混乱の中、アドルフ・ヒトラーの率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は、民族主義と反共主義を掲げて支持を拡大し、1933年に政権を掌握した。イタリアではベニート・ムッソリーニがファシスト党を率いて1922年に政権を獲得し、日本でも軍国主義勢力が台頭して政党政治を衰退させた。ファシズムは危機の時代における民主主義の脆弱性を利用して成長した。

1.3 宥和政策とドイツの膨張

イギリスのネヴィル・チェンバレン首相とフランスのエドゥアール・ダラディエ首相は、ヒトラーの要求に対して譲歩を繰り返す宥和政策を採用した。1936年、ドイツはラインラントに進駐し、1938年にはオーストリアを併合(アンシュルス)。同年のミュンヘン会談で、チェンバレンは「我々の時代の平和」を宣言してズデーテン地方の割譲を認めたが、1939年3月にドイツはチェコスロバキア全土を占領した。この宥和政策はヒトラーの野心を増大させ、戦争回避の努力は逆効果となった。

1.4 日中戦争の勃発

1931年の満州事変以来、日本は中国大陸への侵略を拡大していた。1937年7月の盧溝橋事件を契機に、日本と中華民国の間で本格的な戦争が始まった。日本軍は上海、南京などの主要都市を占領し、1937年12月から1938年3月にかけて南京で大規模な虐殺行為を行った。中華民国政府は重慶に首都を移し、長期抗戦の構えをとった。日中戦争は第二次世界大戦のアジアにおける前哨戦であり、後に太平洋戦争の一部として世界大戦に統合されることとなる。

2 経過

2.1 ヨーロッパ戦線

2.1.1 ポーランド侵攻と電撃戦

1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻した。これに対し、イギリスとフランスは9月3日にドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発した。ドイツ軍はハインツ・グデーリアンの考案した電撃戦(ブリッツクリーク)戦術を採用し、戦車と航空機の緊密な連携によってポーランド軍を短期間で壊滅させた。9月17日にはソ連が東部ポーランドに侵攻し、9月末までにポーランドは分割占領された。この作戦は、機動力を重視した新たな戦争様式の威力を示した。

2.1.2 フランスの陥落とバトル・オブ・ブリテン

1940年5月、ドイツ軍はマジノ線を迂回してアルデンヌの森を突破し、フランス領内に進撃した。イギリス海外派遣軍はダンケルクから撤退を余儀なくされ(ダイナモ作戦)、6月22日にフランスは休戦協定に調印した。ドイツはフランス北部を占領し、南部には親独的なヴィシー政権が樹立された。次いでドイツはイギリス本土への空襲作戦(バトル・オブ・ブリテン)を開始したが、イギリス空軍のレーダー網とスピットファイア、ハリケーン戦闘機の奮戦によって撃退され、ヒトラーはイギリス上陸作戦(アシカ作戦)を断念した。

2.1.3 バルバロッサ作戦と独ソ戦

1941年6月22日、ドイツはソ連との不可侵条約を破り、バルバロッサ作戦を発動した。当初ドイツ軍は電撃戦でソ連領内深くに進撃し、レニングラード包囲、モスクワ前面まで到達した。しかし、ソ連の広大な国土と厳しい冬、そして赤軍の粘り強い抵抗によって進撃は鈍化した。1941年12月のモスクワ反転攻勢でドイツ軍は初めての大敗北を喫し、1942年夏のスターリングラード攻防戦ではソ連軍がドイツ第6軍を包囲殲滅した。この敗北以降、独ソ戦の主導権はソ連に移った。

2.1.4 連合軍の反攻とノルマンディー上陸

1943年以降、連合軍はヨーロッパ各地で反攻を開始した。北アフリカでの勝利後、1943年7月にはシチリア島上陸作戦が実施され、イタリアは降伏した。1944年6月6日、連合軍はノルマンディー海岸に史上最大の上陸作戦(オーバーロード作戦)を敢行し、パリ解放、ドイツ本土への進撃を開始した。一方、東部戦線ではソ連軍がバグラチオン作戦でベラルーシを解放し、ポーランド、東プロイセンへ進撃した。1945年1月、ソ連軍はオーデル川まで到達し、同年4月にベルリンを包囲。4月30日、ヒトラーは自殺し、5月7日、ドイツは無条件降伏した。

2.2 太平洋戦線

2.2.1 真珠湾攻撃と初期の日本軍進撃

1941年12月7日(日本時間12月8日)、日本海軍はハワイの真珠湾にあるアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃した。この攻撃によりアメリカは第二次世界大戦に参戦した。日本軍は同時にマレー半島、フィリピン、香港、グアムなどへの侵攻を開始し、開戦から6ヶ月間で東南アジアと太平洋の広大な地域を制圧した。シンガポールの陥落(1942年2月)はイギリスにとって最大の軍事上の屈辱となった。

2.2.2 ミッドウェー海戦と形勢逆転

1942年6月のミッドウェー海戦は太平洋戦争の転換点となった。日本海軍はミッドウェー島攻略を企図し、連合艦隊の主力を投入したが、アメリカ海軍の暗号解読によって作戦は事前に察知されていた。アメリカ軍は急降下爆撃機による集中攻撃で日本の正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を撃沈し、日本海軍は航空戦力の中核を失った。この敗北以降、日本は戦略的攻勢を維持できなくなり、太平洋戦線の主導権はアメリカに移った。

2.2.3 島嶼戦と本土爆撃

アメリカ軍は1943年から「飛び石作戦」と呼ばれる戦略で太平洋の島々を順次攻略した。ガダルカナル、タラワ、サイパン、硫黄島、沖縄などの激戦を経て、1944年末にはフィリピンを奪回した。同時に、アメリカ陸軍航空軍のB-29爆撃機による日本本土への戦略爆撃が本格化し、1945年3月の東京大空襲では10万人以上の死者を出した。日本軍は各地で玉砕的な抵抗を続けたが、戦局を覆すことはできなかった。

2.2.4 原子爆弾投下と日本の降伏

1945年7月、アメリカは原爆実験に成功し、実戦使用を決定した。8月6日、広島にウラン型原爆「リトルボーイ」が投下され、約14万人が死亡。8月9日には長崎にプルトニウム型原爆「ファットマン」が投下され、約7万人が死亡した。同日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻した。8月15日、昭和天皇はポツダム宣言受諾を表明し、9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ上で降伏文書が調印された。原子爆弾の使用は、大量破壊兵器が人類にもたらす新たな脅威を世界に示した。

2.3 アフリカ・地中海戦線

2.3.1 北アフリカ戦線

1940年から1943年にかけて、北アフリカではイギリス軍とドイツ・イタリア軍の間で激しい戦闘が展開された。ドイツのエルヴィン・ロンメル将率いるアフリカ軍団はトブルクを占領するなど活躍したが、1942年10月のエル・アラメインの戦いでイギリス第8軍(バーナード・モントゴメリー将軍)に敗北した。同年11月にはアメリカ軍がモロッコとアルジェリアに上陸(トーチ作戦)し、ドイツ・イタリア軍はチュニジアで包囲され、1943年5月に降伏した。

2.3.2 イタリア戦線

北アフリカ戦線の勝利後、連合軍は1943年7月にシチリア島に上陸した。この侵攻によりムッソリーニ政権は崩壊し、9月にはイタリアが連合国に降伏した。しかし、ドイツ軍はイタリア北部に防衛線を敷き、連合軍の進撃を阻止した。1944年1月のアンツィオ上陸作戦、5月のモンテ・カッシーノ修道院の戦いを経て、連合軍は1944年6月にローマを解放した。イタリア戦線は1945年5月のドイツ降伏まで継続した。

2.4 アジア・中国戦線

2.4.1 中国戦線の膠着

1937年以降、日中戦争は長期化・膠着状態にあった。日本軍は主要都市と鉄道沿線を制圧したが、中国国民政府軍は内陸部に後退して抵抗を続けた。中国共産党の軍隊も遊撃戦を展開し、日本軍は「三光作戦」(焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす)などの過酷な作戦を実施したが、中国全土を制圧することはできなかった。1941年の太平洋戦争開戦後も、日本は中国大陸に多くの兵力を割かざるを得ず、中国戦線は日本軍全体の約半数を拘束した。

2.4.2 ビルマ戦線

1942年、日本軍はビルマ(現ミャンマー)に侵攻し、イギリス軍を追ってインド国境まで進出した。連合軍は1943年からビルマ奪回作戦を開始し、イギリス・インド軍とアメリカの支援を受けた中国軍が協力して戦った。ウィリアム・スリム将軍率いる第14軍はインパール作戦(1944年)で日本軍を撃破し、その後ビルマ中部を奪回した。ビルマ戦線の戦いはジャングルでの過酷な戦闘で知られ、多くの兵士がマラリアなどの熱帯病に苦しんだ。

3 主要な会議と外交

3.1 大西洋憲章

1941年8月、イギリスのウィンストン・チャーチル首相とアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、大西洋上の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上で会談し、大西洋憲章を発表した。この文書は、領土不拡大、民族自決、国際協力による平和の構築など8項目の原則を宣言し、後の国際連合設立の思想的基盤となった。

3.2 テヘラン会談

1943年11月から12月にかけて、イランのテヘランでルーズベルト、チャーチル、ソ連のヨシフ・スターリンが初めて一堂に会した。主要な議題は対ドイツ戦の戦略調整であり、1944年中のフランス北部上陸作戦(後のノルマンディー上陸)が正式に決定された。また、戦後のドイツ分割や国際機構設立についても協議された。

3.3 ヤルタ会談

1945年2月、ソ連のヤルタでルーズベルト、チャーチル、スターリンが会談した。ドイツ降伏後の分割占領、ポーランド政府の構成、ソ連の対日参戦条件などが話し合われた。スターリンはドイツ降伏後3ヶ月以内に対日参戦することを約束し、その見返りとして南樺太と千島列島の獲得、満州における権益などを認められた。

3.4 ポツダム会談

1945年7月から8月にかけて、ドイツのポツダムでアメリカのハリー・トルーマン大統領、チャーチル(途中からクレメント・アトリー首相)、スターリンが会談した。会談ではドイツの非武装化・非ナチ化・民主化の方針(ポツダム協定)が決定され、7月26日には日本に対する無条件降伏を求めるポツダム宣言が発表された。

4 技術と戦術の進化

4.1 航空戦力と戦略爆撃

第二次世界大戦は航空戦力が戦局を左右する初めての大戦となった。戦闘機の性能は著しく向上し、イギリスのスピットファイア、ドイツのメッサーシュミットBf109、アメリカのP-51マスタングなどが登場した。戦略爆撃は敵国の工業力と国民の戦意を破壊する手段として重視され、イギリスのバーバラ作戦やアメリカの日本本土爆撃は大量の民間人犠牲者を生んだ。また、ロケット弾やジェット機(ドイツのMe262など)も実戦投入された。

4.2 海軍力と航空母艦

航空母艦が戦艦に代わって海戦の主力となった。真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦など、艦載機同士の戦闘が勝敗を決した。アメリカのエセックス級空母、日本の翔鶴型空母などが代表的な艦型である。また、潜水艦戦も重要であり、ドイツのUボートは大西洋で連合国の船舶を大量に撃沈したが、レーダーや護衛空母の登場によって封じ込められた。

4.3 暗号解読と情報

暗号解読は戦争の帰趨に大きな影響を与えた。イギリスのブレッチリー・パークにおけるエニグマ暗号解読は、ドイツ軍の意図を事前に察知する上で極めて重要であった。アメリカは日本の外交暗号(マジック)や海軍暗号(JN-25)を解読し、ミッドウェー海戦の勝利につなげた。また、連合軍は虚偽情報を用いた欺瞞作戦(フォーティテュード作戦)を展開し、ノルマンディー上陸の成功に貢献した。

4.4 原子爆弾の開発

原子爆弾の開発は、マンハッタン計画としてアメリカが主導し、イギリスとカナダの協力のもとで進められた。ロバート・オッペンハイマーを所長とするロスアラモス研究所では、ウラン濃縮とプルトニウム製造の技術が開発され、1945年7月16日にニューメキシコ州アラモゴードで世界初の核実験(トリニティ実験)が成功した。実戦使用は広島と長崎に対して行われ、核兵器の出現は軍事のみならず国際政治全体に革命的な変化をもたらした。

5 戦争の結果と影響

5.1 戦後処理と国際秩序

5.1.1 国際連合の設立

第二次世界大戦の惨禍を繰り返さないため、1945年4月から6月にかけてサンフランシスコ会議が開催され、51カ国が参加して国際連合憲章が採択された。国際連合は1945年10月24日に正式に発足し、安全保障理事会の常任理事国(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国)に拒否権が認められた。国際連盟の失敗を教訓に、より強力な集団安全保障体制が構築された。

5.2 冷戦の始まり

5.2.1 東西ドイツの分裂

戦後、ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4カ国によって分割占領された。米英仏の占領地域は統合されて西ドイツ(ドイツ連邦共和国)として1949年に独立し、ソ連占領地域は東ドイツ(ドイツ民主共和国)となった。ベルリンも同様に分割され、1948年から1949年にかけてソ連によるベルリン封鎖が行われたが、連合軍の空輸作戦によって打破された。ドイツの分裂は冷戦の象徴となり、1961年に建造されたベルリンの壁は1990年まで東西対立の象徴であり続けた。

5.3 植民地独立運動の加速

戦争は欧州諸国の植民地支配の基盤を弱体化させた。イギリス、フランス、オランダなどの植民地大国は戦争で疲弊し、植民地では民族独立運動が高まった。インドは1947年に独立し、インドネシア(1945年独立宣言、1949年オランダ承認)、インドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア、1954年)など、アジア・アフリカの多くの地域が独立を達成した。この非植民地化の波は1960年代まで続き、国際社会の構成を根本的に変えた。

5.4 ホロコーストと戦争犯罪裁判

ナチス・ドイツは「最終的解決」と称して、ユダヤ人約600万人を組織的に虐殺した。これはホロコーストとして知られ、強制収容所(アウシュビッツ、トレブリンカなど)でのガス室による大量殺戮が行われた。戦後、1945年から1946年にかけてニュルンベルク国際軍事裁判が開かれ、ナチス指導者らが人道に対する罪などで裁かれた。東京でも極東国際軍事裁判が開かれ、日本の戦争指導者7名に死刑が宣告された。これらの裁判は、個人の戦争責任を国際法で追及する先例となった。